新暦と旧暦


明治改暦による最初の「太陽暦」
     明治の改暦による
      最初の「太陽暦」
         (三島市郷土資料館蔵)
毎年、冬の気配が感じられる頃になると、書店などで来年のカレンダーが売り出されます。また、商店や企業、あるいは市町村の役所などから届けられます。わたしたちは暦(カレンダー)によって、今日が何月何日で何曜日なのかとか、どんな行事があるのかなどを知ることができ、生活上、欠かせないものになっています。

現在、わたしたちが使っている暦(カレンダー)は地球が太陽を一周する周期を1年とし、日数では365日、あるいは4年毎の閏年には366日と決められています。こうした太陽の運行を基にした暦を「太陽暦」(グレゴリオ暦)あるいは「新暦」と言います。

日本では明治5年12月3日に明治の改暦があり、この日を明治6年(1872)1月1日とした「太陽暦」(グレゴリオ暦)に切り替えられました。現在、わたしたちが使っている暦が、この日から使われ始めたということになります。

それでは、それ以前はどんな暦を使っていたのでしょうか?

日本では推古天皇12年(604)、甲子(きのえね)の年の1月1日から暦を使い始めたと記されています。実際はもう少し前から使われていたようですが、甲子(きのえね)はすべてのことの始まりと言われるため、604年ということにしたようです。

当時の暦は、中国からもたらされた「農暦」をそのまま使っていたということです。「農暦」は中国で4千年以上も前に作られたもので、「太陰太陽暦(たいいんたいようれき)」または「旧暦」とも言います。


慶応4年の「太陰太陽暦」
    慶応4年の「太陰太陽暦」
         (三島市郷土資料館蔵)

「太陰太陽暦」は、月の満ち欠け(新月→上弦の月→満月→下弦の月→新月)を基に作られています。月が地球を一周する周期は29.5日で0.5日という日は無いため、1ヶ月を30日(大の月)か29日(小の月)としました。これですと1年はほぼ354日ですので、「太陽暦」と比べると1年で11日、3年たつと1ヶ月余季節がずれてしまうことになります。これでは農作業をする上で季節があわなくなってたいへん困りますので、季節の目印として二十四節気(にじゅうしせっき)を取り入れました。二十四節気は冬至から次の冬至までの間を24に区切ったもので、「立春」とか「雨水」などがそれにあたります。この二十四節気は、太陽の運行を基にしていますので、月の周期を基にした「太陰暦」と、太陽の周期を基にした「太陽暦」をあわせて「太陰太陽暦」と言います。

「太陰太陽暦」は3年間で1ヶ月余季節がずれてしまうため、当初は3年に1回、閏月(うるうづき)を設け調整するようにしましたが、後に19年に7回の割りで閏月を設けるようになりました。閏月が入る年は1年が13ヶ月になります。そのようなことから、1年を日数で見ると353日、354日、355日、383日、384日、385日の6通りになります。

日本では604年に「中国暦」である「農暦」が使われ始め、1685年までの1000年以上の間、中国と同じ暦が使われてきましたが、894年に遣唐使が廃止された後、約800年の間、中国から暦の改訂情報が入ってこなかったため、実際と2日の誤差が出てしまいました。このため、江戸幕府は渋川春海(しぶかわはるみ)に命じて日本独自の暦を作らせました。それが、貞享2年(1685)に出来上がった「貞享暦」(じょうきょうれき)で「国暦」ともよばれました。その後、1754年、1797年、1842年と3回の改暦がありました。1842(天保13年)の改暦は「天保(てんぽう)の改暦」とよばれています。

参考: 暦ことば辞典



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